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会津若松逍遥1

日帰りで会津若松に行ってきました。今日はその記録を記そうと思います。


会津若松といえば、幕末に長州藩(現在の山口県)と激しく対立した会津藩の城下町です。
時代が移り変わる中、会津藩は最後まで幕府への忠義を貫き、旧来の秩序を回復しようとしましたが、やがて、形勢は新政府側に有利に展開し、会津藩は朝敵とされることとなったのです。
ついに会津戦争が起こり、会津藩は敗北しました。会津若松の町も戦火に包まれました。こうして時代は次へと進んだのです。

長州藩による明治維新達成の過程を知るためには、その犠牲となった会津のことについてもぜひ知っておかなければなりません。というわけで、今回会津を訪れてみることにしました。


まずは若松城(地元では鶴ヶ城とよばれています)を訪れました。
<鶴ヶ城>
鶴ヶ城

鶴ヶ城は会津戦争を持ちこたえましたが、天守閣など多くの建物が1874年に解体されました。現在の天守閣は1965年に再建されたものです。中は会津の文化や歴史を紹介する博物館になっています。
天守閣の屋上からは会津の町並みが一望できるようになっていましたが、北西の強い季節風と雪が顔をうちつけるような状態で、とても風上方向を見ることができませんでした。

コメント

こんにちは

失礼ですが管理人さんは
あまり幕末史は詳しくない方のようですね。
会津藩が戦火に包まれたのは
松平容保の悪政が原因ですよ。
幕府への忠義というのは、星亮一や
早乙女貢達の後付です。
会津藩は官軍に恭順を示しつつ
その実は外国から武器を購入していて
徹底抗戦を貫いた結果起こった戦争です。
実際、会津戦争の戦火は厳しいものではありませんし
実弾を使う必要もさほどなく、空砲を撃っていた程度です。
戦後に会津藩士や会津の領民を比護したのは
前原一誠などの長州藩士で、会津を復興させたのは
薩摩藩士です。会津史はまともな資料もなく
出てくるのは小説と観光史学ばかりなので
あまり鵜呑みにしない事をお勧めします。
せっかくのブログに、ケチをつける形になりすいません。

確かに一定の歴史観を色濃く反映させたレポートになってしまいましたね。歴史を大雑把に叙述すると、どうしてもそうなってしまうのでご了承願いたいと思います。
当時会津藩の方針が武装恭順だったということは承知した上で書きました。しかし、京都守護職・新撰組などを経て、会津戦争があったのですから、後付として「幕府への忠義」と評価するのはあながち間違いではないとは言えないと思います。なので、ブログについては特に訂正いたしません。判官贔屓といわれればそれまでですが、甘んじて受け入れましょう。

会津戦争をめぐる議論は、太平洋戦争をめぐる議論と大変似通っていますね。史実の誤認については互いに訂正していくべきですが、こうしていろんな歴史観の存在を知っていくことも、相互理解のために重要だと思うので、「ケチ」をつけられたとはぜんぜん思ってません。むしろ、こうやって別の歴史観を提供していただけると、ブログの閲覧者にもより多くの選択肢を提供できることになるので、とてもありがたいことだと思います。

ようへいさんへ

空砲を撃っていた程度ってのは、ちょっとひどいです。

よく知りもしないで。

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プロフィール

suhobei

Author:suhobei
関東・関西で育ったものの、高校のころから両親の実家がある山口県に興味を持つようになり、2008年3月大学卒業をきっかけに山口県にIターン。他県出身者にしか分からない山口県の魅力、移住して良かったこと・苦労したことなどを中心に、山口県の話題を発信していきます!

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