コメント
上が責任をとらず、ひとつ下に任せる構造の問題
お久しぶりです。以前、山口の人々には「土地を変えることへの無力感」が実は強いのではないかと書いた覚えがありますが、村おこしをしようとした保見氏は、ある意味それを乗り越えようとして返り討ちにあったのでは、そんな感じもして、私には正直言って同情的に感じるところもあります。むろん、むろん事実は知れる由もなく報道から想像をもとにした限りですが。
誤解はあるかも知れませんが、村の雰囲気として五人組や隣組と似た感覚があったのかもしれません。件の村で事実そうであったかは別として、そういう村が在ったとした場合そういう雰囲気が作られやすいその根本の構造はどこに起因するのだろう、と考えてみました。
以下のような関係がひとつ大きいのではないでしょうか。
①「上のもの(とりわけ、法的に責任の決められた公共の組織:市役所や県庁)が責任をとろうとせず、ひとつ下(自治会長など)に任せる」。よく言えば、住民の自治・自由にまかせている、悪く言えば、何かあっても、具体的に指令を下したものとしての責任をかぶらずに、せいぜい住民の自治に任した責任をかぶる太っ腹な市役所・市長・県庁・知事、というふうに格好よく終えられるようにしている。
②一つ下(自治会長など)としては、市役所に任されているのだから責任を果たさねば、と思い生真面目になりすぎたり、悪く言えば怒られたくない・いい顔をしなければ、となって、住民の監視を厳しくしはじめる。
③住民としては、あの近隣である・親戚である・知り合いである自治会長の言うことだし、争うと今後住みにくくなるから、どんなことでも言うことを聞いておかねば、となる。市役所と言う、多少遠い組織なら上申もやりやすいが、それが出来にくい。本当は市役所に言いたいことなのに、自治会長を通さねばならず、結局言わぬまま、市役所の決めたことに従うばかりで泣き寝入りすることになる。
④さらに、県庁・市役所を頂点としたばかりではないものが、ここに忍び込んでくる。あるいはそもそも村社会の県庁、市役所の方針自体も以下のような構造が底流にあるのかも知れない。つまり、目上のものの恥をあばかないように・恥をかかせないように・・ということが倫理となってしまい、それに外れるものは糾弾される(自分自身が窮屈に従ってきた倫理だから他の人の自由が許せない、とかで)。本来、上のものでも理不尽であったり間違っていれば正したり、わからない部分については聞くべきだと思われるが、それで立腹してきた上のものに逆らえない、という長年のありようが、いつしか逆らわないことを倫理にさえしてしまった(ちょっとしたストックホルム症候群のようなものとして)。また、とりわけ自然相手の第1次産業中心の村で在る場合、自然のリズムに応じた作業ができることがまず大切で、変わったことをやるのは余分で在る分、悪、とされやすいというのもあり。そして、この慣習的な倫理のほうが、一般の法より上になってしまい、その分、ますます第3者的な公共の組織からの介入の力を弱めてしまった(今回の事件で、保見氏は警察に相談に行ったと言うが、そこで、このような脆弱性がはたらいていなかったかどうか、というのが疑問に残ります)。
以上、山口でしばらく働いてみた経験・人から相談を受けた経験から、どうも上の人間が具体的指示を下さず、責任をとろうとしないようになっている職場が多いように思ったことからも考えたことです。少し前、県内の学校で、部活の指導を生徒同士に任せたままそれが暴力へと発展しても顧問はそれをそのままにしていた、というような事件があったように思えますが、これもそういう構造でしょう。繰り返しとなりますが、やはり、県庁、市役所、公共の組織は、法的に責任を任された部分はきちんと自分たち自身で行なう、住民に任せすぎない、のが大切と思います。住民も役所仕事を肩代わりさせられていることに責任を押し付けられているのかもしれない、とも考えてみるべきでしょう。絆と言っても他者を不自由とする「絆」になってしまっていないか住民も考えるべきで、また、何か、端的に法的にすむ事柄であれば法ですませることも大切でしょう。自治については心情でなく、互いに論理的に語り合うことも必要でしょう。理不尽な事柄がだれかに押し付けられないためにも。
誤解はあるかも知れませんが、村の雰囲気として五人組や隣組と似た感覚があったのかもしれません。件の村で事実そうであったかは別として、そういう村が在ったとした場合そういう雰囲気が作られやすいその根本の構造はどこに起因するのだろう、と考えてみました。
以下のような関係がひとつ大きいのではないでしょうか。
①「上のもの(とりわけ、法的に責任の決められた公共の組織:市役所や県庁)が責任をとろうとせず、ひとつ下(自治会長など)に任せる」。よく言えば、住民の自治・自由にまかせている、悪く言えば、何かあっても、具体的に指令を下したものとしての責任をかぶらずに、せいぜい住民の自治に任した責任をかぶる太っ腹な市役所・市長・県庁・知事、というふうに格好よく終えられるようにしている。
②一つ下(自治会長など)としては、市役所に任されているのだから責任を果たさねば、と思い生真面目になりすぎたり、悪く言えば怒られたくない・いい顔をしなければ、となって、住民の監視を厳しくしはじめる。
③住民としては、あの近隣である・親戚である・知り合いである自治会長の言うことだし、争うと今後住みにくくなるから、どんなことでも言うことを聞いておかねば、となる。市役所と言う、多少遠い組織なら上申もやりやすいが、それが出来にくい。本当は市役所に言いたいことなのに、自治会長を通さねばならず、結局言わぬまま、市役所の決めたことに従うばかりで泣き寝入りすることになる。
④さらに、県庁・市役所を頂点としたばかりではないものが、ここに忍び込んでくる。あるいはそもそも村社会の県庁、市役所の方針自体も以下のような構造が底流にあるのかも知れない。つまり、目上のものの恥をあばかないように・恥をかかせないように・・ということが倫理となってしまい、それに外れるものは糾弾される(自分自身が窮屈に従ってきた倫理だから他の人の自由が許せない、とかで)。本来、上のものでも理不尽であったり間違っていれば正したり、わからない部分については聞くべきだと思われるが、それで立腹してきた上のものに逆らえない、という長年のありようが、いつしか逆らわないことを倫理にさえしてしまった(ちょっとしたストックホルム症候群のようなものとして)。また、とりわけ自然相手の第1次産業中心の村で在る場合、自然のリズムに応じた作業ができることがまず大切で、変わったことをやるのは余分で在る分、悪、とされやすいというのもあり。そして、この慣習的な倫理のほうが、一般の法より上になってしまい、その分、ますます第3者的な公共の組織からの介入の力を弱めてしまった(今回の事件で、保見氏は警察に相談に行ったと言うが、そこで、このような脆弱性がはたらいていなかったかどうか、というのが疑問に残ります)。
以上、山口でしばらく働いてみた経験・人から相談を受けた経験から、どうも上の人間が具体的指示を下さず、責任をとろうとしないようになっている職場が多いように思ったことからも考えたことです。少し前、県内の学校で、部活の指導を生徒同士に任せたままそれが暴力へと発展しても顧問はそれをそのままにしていた、というような事件があったように思えますが、これもそういう構造でしょう。繰り返しとなりますが、やはり、県庁、市役所、公共の組織は、法的に責任を任された部分はきちんと自分たち自身で行なう、住民に任せすぎない、のが大切と思います。住民も役所仕事を肩代わりさせられていることに責任を押し付けられているのかもしれない、とも考えてみるべきでしょう。絆と言っても他者を不自由とする「絆」になってしまっていないか住民も考えるべきで、また、何か、端的に法的にすむ事柄であれば法ですませることも大切でしょう。自治については心情でなく、互いに論理的に語り合うことも必要でしょう。理不尽な事柄がだれかに押し付けられないためにも。
再び山口県人さん、
コメントありがとうございます。適切な責任を追っていないトップに対し、下が逆らうことができないという現象は、日本全体で頻繁に起こっている問題で、山口県にだけ特別なものではないのかなと、個人的には感じています。
また、県庁や市役所は公共の組織とは言え、万能ではありませんし、過度な介入は自由な経済活動を阻害します。今回の事件について、県庁や警察の責任を問うのは難しいでしょう。ただし、このように孤立したコミュニティーを作らないために、いろんな第三者が関わる余地はあると思いますので、行政にもそれをサポートする役割を期待したいところです。
コメントありがとうございます。適切な責任を追っていないトップに対し、下が逆らうことができないという現象は、日本全体で頻繁に起こっている問題で、山口県にだけ特別なものではないのかなと、個人的には感じています。
また、県庁や市役所は公共の組織とは言え、万能ではありませんし、過度な介入は自由な経済活動を阻害します。今回の事件について、県庁や警察の責任を問うのは難しいでしょう。ただし、このように孤立したコミュニティーを作らないために、いろんな第三者が関わる余地はあると思いますので、行政にもそれをサポートする役割を期待したいところです。